誰でも指摘できることを平然と指摘しているだけでは何も変わらない。

タイトルのこの一文はいただきもの。

 

ずうっと肝に銘じておかないといけないと思う。ちな座右に銘じているのは「地獄の沙汰も金次第」。文字通りのカネと捉えているわけではないんだけどね。

 

誰でも指摘できることがなぜ放置されているのか

とか。

誰でも指摘できることを平然と指摘する自分の面の皮の厚さは適切かどうか

とか。

 

まああれよ。

指摘しないことがほとんどで、指摘するからにはよほどの思い入れがあるんだけど。し慣れないことをするのだからその結果コケても泣かないと決めてる。縁が切れるならそれはそれでいい。

 

それはおいといて。

 

まずは「なぜ」そこまで思いがたどり着く自分でいたいなぁと。そこからが個性なんじゃないかと。

誰かがなぜと考え出した瞬間その問題の処理はdual core。そうでなければ言って繋がる意味がないんではないかと。

 

だからこそ指摘しないし繋がらないんだけどね。

 

人に対してわたしはモブでいい。適度以上の意味を持ってしまうことがいいこととは思わない。この人ならと思う人にしか言わない。

 

佳きモブでいられるようにがんばろう。